kerostyの日記

徒然なるままに

寛容と他人と社会と

ある人が、「電車で席を譲るか譲らないか」優先席に自分が座っているとして、

それを当たり前のように「座らせろ」というのは如何なものかと苦言を呈した。

 

それに対し「私は座るべき資格があり、それを示しているが譲られたことがない」と言う。

 

まず、譲る側はどう思うだろうか

「譲りたいけど変な気遣いだったら、、、」「話しかけて拒否されるのが怖い」「関わりたくない」「なぜ他人に優しくしなきゃいけないのか」「疲れてるから譲れない」「お前は座りたいのか?残念でした」「今日貧血でしんどいんです」色々思うところがあると思う。

譲られる側はどうか。

「譲ってくれてありがとう」「別に、座りたくないし」「施しみたいなまねは受けたくない」「譲って当たり前」だろうか。

 

自分が座っているとして目の前に立った人間くらいは観察するだろう。

その際自分が無意識にできる行動を取れば良いだけだ。

結果的に善意となれば、ただそれだけでよかったと思える存在が2人できるのだ。

そしてその何気ない一瞬に、人間としての本質がでるのだと思う。

もっと言えば、目の前の人間が譲らなかったとて、

大体2~3人掛の席であろう。3人に断られることは早々ないのではないかと思う。

 

長くなったが、結局SNSが生活に根付きいつでも気持ちを伝え、

共感される世の中になったことで、世界と情報は広がり、逆に視野は恐ろしく狭くなったのではないかと思う。

情報が多すぎるため、自分にとって必要なものの取捨選択が

結果自分に都合の良い情報を取り入れることだけになってしまい、

前述のような会話が生まれるのではないだろうか。

 

社会における仕組みや何かが生まれる時、すべてが自分にとって享受されてしかるべきことだと、

主役であるべきだと思い込んでいないだろうか。この世の中にはたくさんの人間がいる。

人の数だけ人生があり、個々がその人生の主役なのだ。主役は一人しかいないから主役である。

社会という外の世界に飛び出したら常に主役ということではないのだ。

他人に自分の脇役をやれということを強制しますか?他人から強制されて脇役になりますか?

「強制」されて喜ぶ人間はいないのだ。

そこには小さな善意や無意識の行動によって少し良くなった未来があるだけ。難しい話ではない。

考えることでもないし、損得勘定することでもないくらいの選択なのだ。

それをそうできなくなってしまっている人が多くなっていることに悲しくなる。

しかし、もともとこんな世の中だったのかもしれない。

 

サラ・バレリス:A Safe Place to Land 

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