kerostyの日記

徒然なるままに

解釈は介錯されるもの

さて、少し空いてしまったが、

アマプラで、シン・エヴァンゲリヲンが配信開始したのでまた見てみた。

賛否あると思うが、私はよかったと思う。

最初から最後まで全部が良かったなんてことはない。TV版から何十年も続いたシリーズだし。

その中で、


1番はミサトさんとシンジの関係だ。

なんやかんやありましたが、2人の最後のシーンはグッときた。

旧劇では、最後シンジを立て直すため、叱咤してキスをして、女を使って突き飛ばし、これで良かったのか後悔の中で別れた。全てミサトからの行動だ。

今回は、シンジが成長したこと、大人の顔になったことで、ミサトは安心し、シンジから

行ってきます

と抱きしめる。

旧劇は、心残りのある別れだったが新劇ではなにもない希望と感謝の別れだったと思う。構図の対称も、効いていて最高のシーンだ。

だからこそ、ミサトがミサトに戻れたのだろう。


次は、第3村

ニアサーも、悪いことばかりじゃないさ。

あんな世界になっても生は続く。

そして世界が続けば幸せはある。

とてもよいパートですね。

そっくりさんが可愛いすぎる。


アスカ

普通の女の子さ。

14年も好きな男を待ち続ける子なんていない。

ケンケンとは、自然なことでしょう。





難しい用語が沢山でてくるが、

この作品の1番は

登場人物の心の葛藤やエゴ、醜い部分、キレイな部分を細かく生々しくリアルに描いているからこそ魅力的なのだ思う。

誰もが抱えていながら人には言えない内面を表現してしまう。


この人間の内面を作り上げるために、身を削るように、自分の心と思い出の良い悪い全てを吐き出して作り上げた庵野秀明さんやキャラクターに命を吹き込んだ素晴らしいスタッフ、エヴァエヴァたらしめた鷺巣詩郎さんの音楽に感謝と敬意を表したい。素晴らしい作品を見せてくれてありがとう。


どれだけの苦しみがあったかは、わからないが、産みの苦しみは相当だったとおもう。

苦しみ抜いた先にしか作れない深さをもってるとおもう。


だから何度見ても、その時々でフォーカスする部分が変わって面白い。






雑貨屋にて


 

愛に限ったことではない「恋」「友情」人間関係をあらわす、すべての言葉。

これらは、器である

調和のとれた曲線を持つ足付きグラスなのか、薄く繊細でいて直線的なグラスなのか、重厚感のある鋳物でできたものなのか。大きくて底の浅い木の器なのか。

様々な器を眺めていると、ふと思った。

そして、

器を作っていくのが人生ではないかなと。

昔から「人の器」とその人の懐を図るときに使う言葉がある様に。

寛容と他人と社会と

ある人が、「電車で席を譲るか譲らないか」優先席に自分が座っているとして、

それを当たり前のように「座らせろ」というのは如何なものかと苦言を呈した。

 

それに対し「私は座るべき資格があり、それを示しているが譲られたことがない」と言う。

 

まず、譲る側はどう思うだろうか

「譲りたいけど変な気遣いだったら、、、」「話しかけて拒否されるのが怖い」「関わりたくない」「なぜ他人に優しくしなきゃいけないのか」「疲れてるから譲れない」「お前は座りたいのか?残念でした」「今日貧血でしんどいんです」色々思うところがあると思う。

譲られる側はどうか。

「譲ってくれてありがとう」「別に、座りたくないし」「施しみたいなまねは受けたくない」「譲って当たり前」だろうか。

 

自分が座っているとして目の前に立った人間くらいは観察するだろう。

その際自分が無意識にできる行動を取れば良いだけだ。

結果的に善意となれば、ただそれだけでよかったと思える存在が2人できるのだ。

そしてその何気ない一瞬に、人間としての本質がでるのだと思う。

もっと言えば、目の前の人間が譲らなかったとて、

大体2~3人掛の席であろう。3人に断られることは早々ないのではないかと思う。

 

長くなったが、結局SNSが生活に根付きいつでも気持ちを伝え、

共感される世の中になったことで、世界と情報は広がり、逆に視野は恐ろしく狭くなったのではないかと思う。

情報が多すぎるため、自分にとって必要なものの取捨選択が

結果自分に都合の良い情報を取り入れることだけになってしまい、

前述のような会話が生まれるのではないだろうか。

 

社会における仕組みや何かが生まれる時、すべてが自分にとって享受されてしかるべきことだと、

主役であるべきだと思い込んでいないだろうか。この世の中にはたくさんの人間がいる。

人の数だけ人生があり、個々がその人生の主役なのだ。主役は一人しかいないから主役である。

社会という外の世界に飛び出したら常に主役ということではないのだ。

他人に自分の脇役をやれということを強制しますか?他人から強制されて脇役になりますか?

「強制」されて喜ぶ人間はいないのだ。

そこには小さな善意や無意識の行動によって少し良くなった未来があるだけ。難しい話ではない。

考えることでもないし、損得勘定することでもないくらいの選択なのだ。

それをそうできなくなってしまっている人が多くなっていることに悲しくなる。

しかし、もともとこんな世の中だったのかもしれない。

 

サラ・バレリス:A Safe Place to Land 

マイケル・ブーブレHome

手嶌葵:星明りのトロイメライ 他聴きながら

ヒルネ(詩)

ある日の午後

目を瞑り、ソファに横たわり、

お気に入りの音楽を聴きながら、

私は旅に出た。


扇風機の風は、街を吹き抜ける風になり

音楽は孤独を忘れさせる友人となった。

時折りグラスの中で、溶け落ちた氷の音が、

涼しげに聞こえてくる

それは、通り過ぎていく優しい街の景色の様。


深く深く、やさしく、そっと

物語が崩れてしまわぬ様に落ちていこう。

目が覚めたときに、思い出せることはない、

儚く淡い小旅行。

けれど、

確かにあった言える心地よさだけを残して。





オリンピック

大野将平さんが金メダルを取った時のインタビューがとても素晴らしくて

北島康介さんの「超気持ちいい」とまったく対極だなぁと感じた。

 

そもそも、死闘を繰り広げたアスリートが息も絶え絶えにインタビューに答えるのがすごい。

私なら

「えー。。。あー。。。はい。。。ありがとうございます。」

くらいしか思いつかない問題に陥る。

 

このふたつのインタビューはどちらも素晴らしい。

激戦の末勝ち取ったことで

 

北島さんは、今までの全てがあふれ出て思わず放った素直な一言が

「超気持ちいい」で表情や振る舞い試合からとても納得できる

「あぁなるほどな」とすぐに聞いているこちら側も共感できて

納得できる最高の感情表現だったと思う。

 

大野さんは、自分個人は勿論、「日本柔道」という誇りや、武道館という空間、

支えてきてくれた人々への思い、これからの柔道の発展と自分は未完成であるという謙虚さ。

全てを伝えてくれた

これは、日本人の魂に刺さるレベルだと思う。

インタビューとしてこんなに完璧なことってある?って思ったくらい

素晴らしく謙虚だった。謙虚であることは美徳のひとつだ。

 

オリンピックが開催されると、世界に多くの国がありそれぞれに、

ナショナリズムや多様性、人種や宗教等色々あるとつくづく感じ知らない世界に興味が湧く。

 

SometimesMorning

THE CHARM PARK 君と僕のうた

平井大:題名のない今日 

他を聴きながら

イトソレ

「愛」とは何か、

 

美しいものなのか、残酷なものなのか、苦いものなのか、

愛されていないわけではないし、愛していないこともない。

「誰から」「誰へ」今この瞬間ふと「愛」がわからなくなる。

理解できるものではないのかもしれない。

 

あえて言うと、「人」と「人」の間にある透明だけど確かに存在する、

触れられないが感覚のあるものだから。

「それ」を確かめるために誰しもがそれぞれの経験や思いを

言葉や文字など思いつくカタチにする。

ふとした時かずっと考え続けた先か

 

愛とはなにかと書き始めたが、愛を含める「人の想い」のすべてを

「それ」と置き換えることができる。

「それ」を表現する方法はどんなものがあるのだろうか。

 

 

誰に触れるわけでもなく、

誰かが読んでくれたらいいなと思い、

これから綴る私の日記の始めとする。

 

 

柴崎コウMy Perfect Blue

折坂悠太:朝顔

ASKA:はじまりはいつも雨  

他聴きながら